点鍾 :時田副会長
ソング :不明
司会 :SAA
お客様

本日の卓話 新入会員 安田貴博会員

皆さんこんにちは。青葉台幼稚園の安田です。1月、皆さんに承認していただいてから約3ヶ月経っているんですけれども初めはどれくらい緊張していいのかって事も分からずにドギマギしながら会場に足を運んでいたんですが多くの方に色んなお話をしていただいてそれから挨拶する時に目を見て頂いて。そういう数々の心ある気遣いから少しずつ必要以上に緊張せずここに足を運べるようになっております。ただ一つだけ自分の本当の意味ではらうちしきっていない部分がありましてこのロータリークラブの奉仕の心。そのことがやはりまだなりきれていないと。どうしてなんだろうと考えているんですけれども一つは皆様のように組織のトップに立つような私はそのような役職ではないってことなのかなとそれが原因なのかって事も考えましたし、ひとつの業界で成功を納めたっていう経験も私はまだないのでだから私がそういう境地に達せないのかとそんなことも考えているんですけれどもどうやら根本には私が育ってきた歴史そこに原因があるのではないかとそんな風に思いまして今日はちょっと私の学生時代の話から自分の人となりを知っていただいて少しでも皆さんに自分の人となりを知っていただけたらと思っております。
私が幼稚園の教員を始めたのが1月でその前はサッカーのコーチをやっておりました。今でも宮田さんに許可をいただいてWワークとしてサッカーコーチは続けています。サッカーコーチというのはほぼ全てサッカー選手を目指していた人たちが最終的になったりする職業なんですけれども私もそれに漏れることなくプロ選手を目指して生きてきました。私が中学生の頃Jリーグという日本にもプロリーグが出来て自分もそれを目指すんだという所で千葉県でもその時に強豪だったのが市立船橋高校とそれから市立習志野高校と2つが強豪で高校を卒業するとその学校から2〜3名がプロ選手になると。そういう学校だったので私は市立習志野高校の方に入学しました。それが1994年なので時代としては高校生から女子生徒がルーズソックスを履くようになったりとか日焼けした黒く肌を焼くような子が出てきたりとか時代が平成になって新しい時代だってそんな流れもあったんですけれどもその当時の体育会系世代はまだ前の世代の時代を作ってきた人達が先生だったので我々のサッカーの世界もその世代の方が主流という世の中ではあったと思います。私の習志野高校の部員が120人くらいで全員がその地域ではサッカーの腕自慢の人間が集まって更に他の県からもここは全国的に良い高校だという事で下宿生活をしながらプロを目指すそういう学校ではありました。その時代っていうのは3年生が一番偉いだとか先生の言う事は絶対だっていう事だとか、1年生はボール磨きをしなくてはいけないとかそういった高校もあったんですけれども私もそれを覚悟しながら入ったんですが実際に入ったら真逆の世界でした。1年生からボールは触らせてもらいました。それから120人がA〜GまでチームがあるんですけれどもAチームはプロの指導者が教える指導を1年生もすぐにそれを受けさせてもらいました。それから上下関係もなくて先輩に対してもちゃん付けだったり君付けで呼べるような関係でもありました。ですので一見その時代にそぐわないとても過ごしやすい1年生の生活ではあるんですけれどもそれでも3ヶ月4ヶ月経った頃から辞める選手が出てきました。何でかなって今振りかえると決定に無かったのは承認してもらえないというところでした。120人もいると先生もやはり全部みきれないので1人1人に愛情を注いで伸ばすという指導ではなくて上手ければただAチームにどんどん近づいていくシステムだけが存在していて我々を導いてくれるような言葉というのを先生からもらえませんでした。そうなると選手というのは自信満々に入ってきた選手達も構ってもらえないのでやさぐれていく。練習しろとケツを叩く人がいないので全て自分次第なんです。そうなってくると自己肯定感も下がっていって一見いい環境であるにも関わらず部員はどんどん辞めていく。そういう状況でした。そういう部活に入ると先輩達の試合を心から応援するという気持ちにならない。学校側から愛してもらえないので。自分が役割を与えてもらえないからこのAチームの勝利に自分が貢献しているというような気持ちを1年生では味わえなかったです。ですので先輩達の最後の試合に対しての応援も半分くらい欠席していましたし、もっと言うと仲間が怪我をした時に心配する心というよりもライバルが1人減ったっていうような気持ちになっているとか。本当に爽やかな高校生のマインドというのが中々持てない環境ではありました。それは言うならば個人事業主と同じでその当時はまだ学歴社会が強く要求されていた時代なんですけれども勉強ができなかったらスポーツで生きていくしかないと。120人の中で推薦で大学に行けるのは20人くらい。プロになれるのは1人か2人くらい。そこを争うたびに全ては自分次第という部活だったので全て自己責任。そんな中に身を置かれてチームの為にとか仲間の為にというような精神を持てない高校生活でした。高校を卒業して私はプロの道に行かなかったんですけれどもサッカーの小さい番のフットサルというスポーツがあるのですがそちらに転向して何とかプロの生活を送れるようになりました。ただそれは変わらず個人事業主と同じ状況だったのでそのクラブの為に尽くしたところでそのクラブ側からは来年で契約はないと。私は主力になれるかなれないかくらいの立場だったので誠心誠意尽したとて見返りとして何かそういうものをもらえるわけではないという生活が30歳後半くらいまで続いて来ました。
母校の悪いことばかり言っていましたが習志野高校で得たもの中にいい面もありました。先導してくれる先生がケツをたたいてくれる方達がいない分全て自己責任になります。そうするとやはり子供たちはすごく考えます。俺は何でサッカーをやっているんだろうとかそもそもどうなりたいのかとか朝起きてグランドに行く行かないのも自由だし休んでも先生に怒られるわけではないので多分早い時期から自分の生き方とかサッカーを何のためにやるのかという事を物凄く考える時間となりました。私は下宿生活だったので夜な夜な仲間と色んな討論をしました。その当時、高校野球もサッカーも一致団結しているチームが全国大会で爽やかなプレーをするという時代でしたが今でもあると思いますがそういうのはなくて自問自答して自分というものを形創ってプレーに反映させる選手たちというのはやはりAチームに上がっていく事が多くてその選手たちがピッチに立った時には他の高校とはやはり違う魅力はかもし出していたんじゃないかなと思います。それは個性的だと下品な個性ですと人の個性を消したりとか潰す行為になる可能性があると思うんですけれどもお前もいいよね、でも俺もいいよねというような個性の出し方が当時の習志野高校はできていたのでその11人が織りなすサッカーというのはやはり話題を呼びましたし各方面から取材も沢山来ましたし後から聞くと実はその当時の先生やコーチはわざと一つの方向に導く事を止めて自問自答して個性を持って這い上がってくる選手を育成したかったという風に後からおっしゃって下さいました。ですのでその自意識というものを習志野高校によって私達は考えたり得ていくきっかけを与えてくれた高校生活でした。
この4〜5年時代は複雑で不透明で不確かでそんな時代に入ったとよく言われますが私はその言葉を聞いた時に正にサッカーを押しているものと同じだなと不確かで不透明で不可欠だとそういった時代に突入している時にサッカーのツールで人を育てることができればその場で仲間と強調しあうとか他の国の価値観を認めてそれを自分たちにも取り入れながら私達はこのシーンをこのように考えるよというのを発信していく子供たちを育てる事ができるのではないかと考えております。幼稚園の子供たちそれからサッカーをしている子供から大人たちに私は指導している立場にあるのですが習志野高校の時の負の念、承認欲求を得たかったそういう事がないようにどの子供たちにも君が必要だとそれから早いとか強いという価値観以外にも君が今表現しようとした事はとても面白いよねと言うような言葉を与えて安心させて自立した子供を育てる事、それから不安定不可欠な時代に対してサッカーというものを通じてその場で対応できる人間に育てる。そんな事をいま考えながら自分の仕事をまい進していこうと思っております。ご清聴ありがとうございました。

ニコニコ報告:
<北村幹事>
本日は足元の悪い中皆さまお疲れ様です。皆さまに会えてニコニコです。

<時田会員>
今日は副会長の仕事を初めてしました。役に立てて良かったです。

出席報告:
本日の出席者数名 20名
本日の出席率今回64.51% 前々回出席率100%(移動例会のため)

事務局:
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